今回は、「文化的な能力があることをやって見せる」ための人間関係のスキルについて考えます。異文化の人々との様々な心理的問題には異文化カウンセリングという分野があります。文化という点では、他にも定型発達の人と障害者や虐待などを受けた人やLGBTGの人々との感じ方の違いにも当てはまります。
私は、肢体不自由特別支援学校の教員として、脳性まひの高等部生徒への身体の動きの指導した時に次のような生徒との会話の経験があります。
宮﨑:車いすで介助されての生活は大変でしょう。自分で立ってトイレに乗り移ったり、歩いたりできるとよいと思いませんか?
生徒:立ったことも歩いたこともないので、わかりません。
私の発言は、立って歩いている私自身の定型的発達の身体と身体感覚と生活経験を基準にしたものです。生徒の立てない歩けない個性的発達の身体と身体感覚と生活経験を基準にした体験を推測することができなかったのです。
特別支援教育には、「個々の児童又は生徒か自立を目指し、障害による学習上又は生活上の困難を主体的に改善・克服するために必要な知識、技能、態度及び習慣を養い、もって心身の調和的発達の基盤を培う(文部科学省2017)」ことを目標とした「自立活動」という教育があります。「調和的発達」は、発達心理学的には「発達段階に応じた発達課題を達成すること」と考える方が多いと思います。しかし、発達段階は同じような身体と身体感覚と生活経験をもった子どもの平均的な発達の姿を示したものです。多様な身体や身体感覚や通常とは異なる生活経験がある子どもの場合に同じように当てはまるとは限りません。
詩人の金子みすずの「わたしと小鳥とすずと」という詩に「みんなちがってみんないい」という言葉があります。小学校の教科書にも載っています。しかしながら、中学校の国語の授業で次のような場面に出会ったことがあります。
小柄な女子生徒が先生に指名をされて教科書を読み始めました。小さな声でした。少しして、ある男子生徒から「きっこえませーん」とぶっきらぼうな声が上がりました。先生は「そうですね。もっと大きな声で読んで下さい」と言って、そのまま授業は進んでいきました。
朗読の声が小さくて他の生徒に聞こえにくい時に、少し大きな声で読んでほしいというデジタルモードのコミュニケーションは必要でしょう。けれども、ぶっきらぼうに「きっこえませーん」と声が小さいことをバカにしたようなアナログモードの言い方は人間関係のスキルとしてはいかがなものでしょうか。声が小さいという「人との違い」はいけないことでしょうか。男子生徒には、「聞こえないのでもう少し大きな声でお願いします」と言える人間関係のスキルを身につけてほしいと感じました。
学習指導要領には1年生には1年生の教科書、2年生には2年生の教科書という発達段階に基づいたカリキュラムが組まれています。そして、学校における実際の学習プロセスにおいても、みんなが同じように発達段階に沿った学習内容を修得することを目的としています。しかしながら、発達段階から外れて「違うこと」を良くないことと価値判断する必要はないと考えます。もしも、発達段階と「違うこと」が良くないことならば、天才的な能力を持つ人たちも知的障害の人たちも良くないという価値判断になってしまいます。乙武(1998)は、障害は不便ではあるが不幸ではないと述べています。人数の多い定型発達の人向けに整えられた環境の中で、違う身体や身体感覚や生活経験のある人たちは不便を感じることは多いと思いますが、その違いを定型発達の人と比べて良くないとか不幸だと人間関係としての価値判断をする必要はないのです。
「文化的な能力があることをやって見せる」ための人間関係のスキルとして、まずは、自分と違う人々の身体と身体感覚や生活経験に接して、自分が自分自身の身体と身体感覚や生活経験を基準に物事を判断していることに気づくことが大切です。そしてお互いの違いを認め合い、自分も相手も尊重する“I’m OK. You’re OK. “の構えを身につけていく学習が大切だと思います。
参考・引用文献
- 文部科学省(2017)第7章自立活動. 特別支援学校学習指導要領、 157-159.
- 乙武洋匡(1998)五体不満足、 講談社.